死と隣り合わせの冒険を続けるアルピニストを夫に持つこと。それは想像を絶するプレッシャーとの戦いを意味する。野口健の愛妻は、メディアへの過度な露出を避けつつも、家庭を守り抜いてきた力強い存在だ。登山界では有名だが、野口健はエベレストなど高難度の遠征に出発する前、必ず遺書をしたためて自宅を後にするという。残される家族にとって、その遺書を受け取る瞬間の緊張感と心理的重圧は計り知れない。
夫婦間には数々の衝撃的なエピソードが語り継がれている。遠征中、過酷な雪山から無事生還した連絡を入れると、安堵の涙を流すどころか「無事ならよかったわ、ゴミ出しよろしくね」とサバサバとした反応が返ってきたという笑い話もその一つだ。死への恐怖と日常の生活感を絶妙なバランスで受け止め、過剰に腫れ物に触れるような対応をしない妻の凛としたスタンスこそが、極限状態から帰還した野口健を「普通の人間」へと引き戻す唯一の安全地帯であった。家庭内で見せる照れくさそうな父親・夫としての素顔は、過酷な山々で見せる険しい表情とは対極の、温もりとユーモアに満ちあふれている。