まずは、明治期から令和の現在に至るまで教科書やアンソロジーで読み継がれてきた上田敏訳の全文と、その言葉に込められたニュアンスを紐解く現代語訳を確認してみましょう。わずか5行の短い詩の中に、濃密なドラマが凝縮されています。
【上田敏訳『山のあなた』全文】
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
【現代語訳(口語訳)】
山のずっと向こうの、はるかな空の果てに、
「幸福」が住んでいると、世間の人々は口をそろえて言う。
ああ、私は友とともにそれを探し求めて旅立ったけれど、
悲しみに涙を浮かべながら、すごすごと引き返してきたのだ。
それなのに、山の向こうのさらに遠い場所に、
「幸福」が住んでいると、人々は今も語り合っている。
詩の中で使われている「われひとゝ」は「我人と」、つまり「私と友(あるいは愛する人)」を意味します。一人きりではなく、志を同じくする誰かと手を取り合って憧れの地を目指したにもかかわらず、手に入ったのは救いではなく深い失意でした。青空文庫の『海潮音』を開くと、上田敏が選んだ格調高い文語表現が、単なる旅の失敗談を超えた人類共通の精神的遍歴として見事に定着していることが分かります。