木村安兵衛は、現在の茨城県にあたる常陸国牛久藩の下級武士でした。明治維新による廃藩置県と士族解体に伴い、職を失った安兵衛は50代にして上京を余儀なくされます。当時の武士にとって商売は未知の領域であり、多くの士族が商売に手を出しては財産を失う「士族の商法」と揶揄される時代でした。
安兵衛が着目したのが、長崎でパン製法を学んだ職人との出会いでした。「これからは西洋の食文化が日本に入ってくる」と確信した安兵衛は、明治2年(1869年)、東京・芝日陰町(現在の新橋駅付近)に前身となる「文英堂」を開業します。しかし、開業翌年には大火によって店舗を全焼するという壊滅的な打撃を受けました。
この絶望的な状況を支え、事業を立ち直らせた立役者が妻の千代でした。千代は持ち前の商才と不屈の精神で資金繰りを奔走し、明治3年(1870年)に銀座へ進出。「木村屋」として再起を果たします。当時、銀座は煉瓦街の建設が進む近代化の象徴エリアであり、千代の先見の明が木村屋の飛躍を決定づけました。
当時の日本人にパンが普及しなかった最大の理由は、西洋由来のホップを用いたイースト発酵特有の酸味と硬い食感が、米食文化の舌に合わなかったためです。そこで次男の英三郎が着目したのが、日本酒造りに使われる「酒種(米麹酵母)」でした。米と麹から起こした酵母でふっくらと柔らかな生地を作り、中に日本伝統の小豆餡を包み込む。試行錯誤の末、明治7年(1874年)に世界初の「酒種あんぱん」が誕生しました。