原爆候補地の真実|なぜ京都や小倉は外れ広島と長崎だったのか

原爆候補地の真実|なぜ京都や小倉は外れ広島と長崎だったのか

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1945年8月9日、プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を搭載してテニアン島を飛び立ったB-29爆撃機「ボックスカー」(チャールズ・スウィーニー少佐機)の第一目標は、長崎ではなく福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区・小倉南区)でした。

小倉には東洋最大規模を誇った「小倉陸軍造兵廠」があり、兵器製造の中枢として最優先目標に指定されていたのです。しかし、当日の現場では複数の要因が重なり、ボックスカーの爆撃行は混乱を極めました。

第一に、気象観測機からの「小倉上空は視界良好」という第一報を受けて小倉上空に到達したものの、現地は厚い雲に覆われていました。さらに前日の8月8日に行われた近隣の八幡大空襲による火災の残煙、あるいは八幡製鉄所の従業員が機転を利かせてコールタールを燃やして張った煙幕によって、目標視認が完全に妨げられていました。

投下命令の厳格な規律として「目視による確認投下」が義務付けられており、レーダー照準のみによる投下は固く禁じられていました。スウィーニー機は小倉上空で投下進入を連続して3回試行しましたが、爆撃照準器越しに陸軍造兵廠を視認することはできませんでした。

この間、上空での滞空時間は約45分から50分に及び、日本軍の対空高射砲による迎撃が激化。さらにボックスカー号は離陸前から予備燃料タンクのポンプ故障を抱えており、燃料残量は限界に達していました。スウィーニー少佐は小倉への投下を断念し、第二目標である長崎へと進路を変更したのです。

長崎上空もまた厚い雲に覆われており、燃料の残量から投下進入は一度きりしか許されない絶体絶命の状況でした。スウィーニー機は軍律違反を覚悟でレーダー投下への切り替えを決断しかけたその瞬間、雲の切れ間から長崎市街の工業地帯が一瞬だけ顔を覗かせました。1945年8月11時02分、ファットマンは長崎市北部の上空約500メートルで炸裂しました。天候の僅かな綾と視界不良が、小倉と長崎の運命を決定的に分けた瞬間でした。

清水 千尋
著者

清水 千尋

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。