フランス革命が激化するなか、なぜマリー・アントワネットは極刑を免れ得なかったのでしょうか。1793年10月14日から始まった革命裁判において、検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルが突きつけた罪状は、表向きは国家に対する重大な反逆行為でした。しかしその内実は、激昂する民衆の怒りを鎮めるためのスケープゴート(生贄)としての側面が色濃く反映されていました。
裁判で提示された主要な罪状は、以下の3点に集約されます。
第一に、「祖国に対する反逆罪」です。実家であるオーストリアをはじめとする諸外国と密通し、フランス軍の作戦計画を敵国へ漏洩させたという容疑でした。これはヴァレンヌ逃亡事件(1791年)以降、王室への不信感が頂点に達していた民衆にとって決定的な裏切りと映りました。近年の史料研究においても、アントワネットがオーストリア側に軍事情報を秘密裏に伝達していた書簡が確認されており、革命政府側から見れば明白な利敵行為と判断される余地がありました。
第二に、「国家財政の浪費と陰謀」です。王妃の浪費癖が国家破綻を招いたという主張であり、長年流布された扇動パンフレット(リベル)によるネガティブキャンペーンが集大成された形となりました。世に名高い「首飾り事件」をはじめ、実際には彼女自身が無関係あるいは被害者であった案件すらも、すべて「赤字夫人」の悪行として集積されて断罪の材料とされたのです。
そして第三に、法廷を最も騒然とさせたのが「実子(ルイ17世)に対する近親相姦の罪」でした。革命政府は、わずか8歳の次男シャルル(ルイ17世)を母から引き離し、過酷な監視下で洗脳に近い誘導尋問を行い、「母と伯母から不適切な行為を強要された」という偽証調書を作成させました。この卑劣極まりない告発に対し、法廷で毅然と沈黙を守っていたアントワネットは、傍聴席の女性たちに向かって次のように訴えかけました。
「もし私が答えなかったとすれば、それは母の心というものが、このような嫌疑に対して答えることを拒絶するからです。私はここにいるすべての母親たちに訴えます!」
この魂の叫びは法廷内の女性傍聴人たちの心を揺さぶり、一時は裁判官側が狼狽する事態となりました。しかし、ジャコバン派独裁政権にとって王妃の処刑はすでに決定事項であり、10月16日未明、死刑判決が下されました。