東日本唯一の奇跡!川越城本丸御殿が廃城令を生き延びた真相

東日本唯一の奇跡!川越城本丸御殿が廃城令を生き延びた真相

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川越城の歴史を紐解くと、室町時代の長録元年(1457年)にまで遡ります。扇谷上杉持朝の命を受けた太田道真・太田道灌父子によって築城された歴史がすべての始まりでした。関東管領の覇権争いの中で武蔵国の要衝として機能した城は、江戸時代に入ると江戸城の北方を守る「北の守りの要」として重要視され、親藩・譜代の大名が代々城主を務めることになります。

現存する本丸御殿の成立には、一人の名君の存在が欠かせません。嘉永元年(1848年)、越前松平家当主で17万石を誇った川越藩主、松平斉典による本丸御殿の普請です。弘化3年(1846年)に二の丸御殿が焼失したことを契機に、松平斉典は幕府の重鎮としての威信をかけ、16棟・総坪数約1,025坪に及ぶ壮大無比な本丸御殿を新造しました。現在見学できる大玄関や大広間、家老詰所はその貴重な一部にあたります。

では、なぜ明治6年(1873年)の廃城令によって全国の城郭が次々と取り壊される中、川越城本丸御殿は生き残ることができたのでしょうか。川越市教育委員会の調査記録や郷土史の記述を検証すると、驚くべき東日本唯一の現存本丸御殿となった理由が浮かび上がってきます。

当時、川越城の周囲を取り囲んでいた土塁や櫓の多くは破却され、御殿建築の大半も解体・民間に払い下げられました。しかし、中核をなす大広間と玄関棟は破却を免れました。それは「美術品として保存された」のではなく、「地域の行政拠点や教育現場として極めて実用的に再利用された」からです。明治初期には入間県庁舎として使用され、その後は川越町役場、さらには煙草専売局の詰所や専売公社の工場として稼働しました。

戦後は埼玉県立川越中学校(現・川越高校)や川越市立初雁中学校の屋内運動場(体育館)として、生徒たちが実際に床を走り回る学び舎として活用されていました。さらに、一度は解体されて近隣の寺院(富士見市の福蔵寺)へ移築されていた「家老詰所」が、昭和の終焉を目前にした1989年に奇跡的に買い戻され、現在の位置へ再び移築・再統合されたという経緯を持ちます。破壊と再生の紙一重の境界線を渡りきった、まさに地域の生きた歴史そのものです。

鈴木 陽菜
著者

鈴木 陽菜

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