連勝を重ねる金朝の存在は、遼の南方に位置し、長年「澶淵の盟(1004年)」によって遼へ巨額の歳幣(銀や絹)を送り続けて屈辱に喘いでいた漢人王朝「北宋」の目にも留まりました。北宋の第8代皇帝・徽宗(きそう)と側近の童貫らは、北方の新興勢力である金と手を組み、遼を南北から挟み撃ちにして、悲願であった「燕雲十六州」を奪回しようと画策します。
遼の監視網を潜り抜けるため、山東半島から海路を使って密使を派遣し、1120年に結ばれた軍事同盟が「海上の盟」です。
この盟約において、両国は次のように取り決めました。
- 金の分担:長城の北側から遼の中京(大定府)を攻め落とす。
- 北宋の分担:南方から進軍し、遼の南京(析津府=現在の北京)を攻略する。
- 戦後処理:遼が滅亡した暁には、北宋はこれまで遼に支払っていた歳幣と同額を金に納め、引き換えに燕雲十六州の領有を認められる。
しかし、この作戦は遼の滅亡理由と北宋の致命的な軍事的無能を天下に晒す結果となりました。遼はすでに天祚帝の失政や皇位継承争いによって末期症状に陥っており、阿骨打率いる金軍の前にはなす術もなく壊滅。中京はおろか西京まで電撃的に陥落しました。
一方で、北宋軍は名目上20万の大軍を投じながら、残党にすぎない遼軍に大敗を喫し、南京すら自力で落とせませんでした。見かねた阿骨打は自ら万里の長城を越えて南下し、あっさりと南京を制圧。北宋の弱体ぶりと財政難を目の当たりにした金軍首脳部は、「宋など恐れるに足らず」と確信することになります。
阿骨打は信義を守り、一度は燕雲十六州の一部を北宋へ返還しましたが、宋側が密かに遼の残党と通謀して背信行為を働いたため、両者の亀裂は決定的となりました。この外交的確執が、阿骨打の死後、北宋を滅亡に追い込む「靖康の変(1126〜1127年)」へと直結していくのです。