山南敬助の写真は実在するのか?ネット古写真の真相と歴史的空白

山南敬助の写真は実在するのか?ネット古写真の真相と歴史的空白

山南敬助の写真は実在するのか?ネット古写真の真相と歴史的空白に関する気になる情報を初心者にも親しみやすくまとめました。今すぐチェックことができます。

写真が存在しないとなると、次に注目されるのが「当時の肖像画」の有無です。しかし、生前に描かれた山南敬助の確実な肖像画も現在まで見つかっていません。現在博物館や歴史解説書籍で見られる山南のビジュアルは、後世の画家やイラストレーターが、同時代人の証言(「温厚な人柄」「色白の風貌」など)をもとに創作した想像画です。

実在の山南敬助を偲ぶ最も確かな物理的拠点は、京都市下京区にある浄土宗寺院・光縁寺です。光縁寺の当時の住職・良誉上人と山南の間には、山南家の家紋「丸に右離れ三つ葉立葵」が光縁寺の寺紋と同じであったことから深い親交が結ばれました。その縁から、新選組初期に落命した隊士たちは光縁寺に手厚く埋葬され、山南自身も同寺の墓地で静かに眠り続けています。

山南をめぐる人間ドラマとして最も人口に膾炙しているのが、恋人・明里(あかり)との別れの史実です。作家・子母澤寛の『新選組遺聞』では、山南の切腹直前、島原の芸妓(天神)であった明里が屯所前川邸の格子窓越しに駆けつけ、涙ながらに最期の言葉を交わした切ない情景が描かれています。

この名場面は長く創作と疑われてきましたが、光縁寺の過去帳には元治2年に亡くなった女性として「明里」の名が記録されていることが判明しています。格子越しの別れという演出には子母澤寛による劇的な脚色が含まれている可能性が高いものの、山南の周辺に明里という女性が実在し、山南の後を追うようにこの世を去ったこと自体は否定できない歴史の影として息づいています。

また、山南敬助の子孫の現在に関する調査においても、直系の子孫は確認されていません。山南は妻帯することなく33歳の若さで自刃しており、直系の血筋は途絶えています。仙台藩本家筋や親族を称する家系の伝承は存在するものの、家系図や公的記録によって山南敬助の直系卑属と立証された存命者は存在しないのが史実の到達点です。

高橋 健太
著者

高橋 健太

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。