次男・次郎氏の突然の死は、麻生家という一族の運命を決定的に変えることとなりました。母である麻生和子氏は、著書『日本の品格』や周囲への回顧録のなかで、息子を失った当時の底知れぬ哀しみを赤裸々に綴っています。母親として我が子の遺骨すら抱くことができなかった無念は、生涯消えることのない深い傷痕として残り続けました。
そして、この事故によって人生の航路を大きく修正せざるを得なくなったのが、長男である麻生太郎氏でした。当時の太郎氏は、学習院大学を卒業後にスタンフォード大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に留学し、国際的な実業家としての視野を広げていた時期でした。一族のなかでは、優秀で温和な次男の次郎氏が将来的に家業である麻生グループや地元・福岡の地盤を継承し、兄の太郎氏はより自由な立場で国際舞台を股にかけるという選択肢も模索されていたとされています。
しかし、弟の急逝によって「長男として麻生家を背負う」という宿命が、太郎氏の双肩に一気にのしかかることになります。帰国後、太郎氏は麻生セメントに入社し、後に代表取締役社長に就任。炭鉱からセメント、そして医療・情報関連事業へと事業構造の転換を図る麻生グループの近代化を強力に推し進めました。その後、1979年の衆議院議員総選挙で初当選を果たし、政界へと進出していく道筋の根底には、若くして散った弟・次郎氏の分まで家名を守り、社会に尽くすという強い使命感があったと関係者らは述懐しています。
事故から長い歳月を経た現在、麻生グループは三男である麻生泰氏(現・麻生セメント会長、麻生グループ代表)や、その次の世代へと受け継がれ、九州を代表する巨大企業グループとして盤石の体制を築いています。しかし、一族の栄華の陰には、常に相模湾の海に散った若き次男の存在が静かに刻まれ続けているのです。