篠原勝雄氏の足跡を辿るうえで欠かせないのが、群馬県桐生市広沢町での壮絶な子育ての歴史です。篠原涼子さんがわずか2歳の時、実母が不慮の交通事故により他界。勝雄氏は突如として、幼い長男、長女、そして次女である涼子さんの3人の子どもを抱えるシングルファーザーとなりました。
昭和40年代から50年代にかけて、男性が家事と育児を担いながら生計を立てることは並大抵の苦労ではありません。勝雄氏は地元の民間工場などに勤務し、機械工や現場職人として朝から晩まで汗を流しながら、毎日の食事作りや学校行事への参加を一切欠かしませんでした。篠原涼子さん本人が過去のテレビ番組やインタビューで明かしたところによると、父の手料理は豪快ながらも美味しく、毎朝のお弁当作りまで一人でこなしていたといいます。
学歴や詳しい職歴について公の記録で誇大に語られることはありませんが、桐生という織物や機械産業で栄えた土地で、愚直に家族を支え続けた頑固一徹な昭和の職人気質そのものでした。厳しい礼儀作法を重んじる教育方針で、食事の挨拶や目上の人への言葉遣いには厳格そのもの。一方で、幼少期におてんばで男の子たちを従えて遊んでいた涼子さんを温かく見守り、彼女が芸能界入りを志資した際には、当初心配しつつも最終的には娘の決断を背後から力強く後押ししました。