鳴海清は1952年(昭和27年)、大阪市で生まれました。幼少期から荒れた環境で育ち、少年時代から大阪・ミナミの盛り場で愚連隊として活動するなかで、右翼・暴力団組織である「大日本正義団」の創設者・吉田芳弘会長と出会います。親の愛情に飢えていた鳴海にとって、吉田会長は絶対的な父親代わりであり、その忠誠心は常軌を逸するほど純粋かつ強烈なものでした。
しかし、運命の歯車は1977年(昭和52年)に狂い始めます。大阪空港近くのクラブ「ジュネーブ」前で、吉田芳弘会長が山口組系佐々木組組員によって射殺される事件が発生しました。最愛の首領を奪われた大日本正義団の残党は復讐を誓いますが、巨大組織である山口組に対して正面から抗争を挑む力はありませんでした。その中で、鳴海清は「親の仇を討つには、頂点である三代目の首を取るしかない」という破滅的な決意を固めていきます。
1978年7月11日夜、京都市東山区の高級クラブ「ベラミ」に、医師や知人らとともに訪れていた田岡一雄組長が着席していました。鳴海清は白いスーツ姿で店内に潜入し、田岡組長の背後数メートルの距離まで音もなく接近。隠し持っていた38口径のリボルバーを抜き、田岡の首元をめがけて2発の銃弾を発射しました。1発が頸部を貫通し、店内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化します。田岡組長は奇跡的に一命をとりとめたものの、戦後裏社会の帝王が撃たれたという事実は、日本全土を震撼させました。