歴史ドラマやゲームの影響から、「真田幸村も関ヶ原の霧深い盆地で東軍を相手に槍を振るっていた」と誤解されるケースが後を絶ちません。しかし、同時代史料である『真田家文書』や『上田軍記』などの記録を紐解くと、決戦当日の慶長5年9月15日、幸村(信繁)は信濃国・上田城(現在の長野県上田市)にいたことが明確に裏付けられています。
幸村は関ヶ原の本戦に出陣するどころか、本戦の数日前まで父・昌幸とともに上田城に籠城し、東海道を進む徳川家康本隊とは別に中山道を西上してきた徳川秀忠率いる約3万8000の東軍主力部隊を迎え撃つ前線にいました。これが歴史に名高い「第二次上田合戦」です。
秀忠軍は上田城攻略に手こずり、9月8日前後には城攻めを諦めて美濃へ向けて出発していました。しかし、残された真田父子は後詰め(補給線)の脅威として信濃に睨みを利かせ続けており、物理的にも上田から関ヶ原までは約200キロメートルもの険しい山道が横たわっていました。当時の行軍速度では到底間に合う距離ではなく、信繁は上田城内で天下分け目の戦いの推移を待つほかありませんでした。