古代の融和思想であった「掩八紘而爲宇」が、なぜ現代において激しい拒絶反応を招く四字熟語「八紘一宇」へと変貌を遂げたのでしょうか。その転換点は、明治後期の宗教運動と、昭和初期の軍国主義の台頭という二段階の歴史的変容にあります。
四字熟語としての「八紘一宇」を初めて造語したのは、日蓮主義の信徒団体「国柱会」を創設した宗教家・思想家の田中智学(たなか・ちがく)です。日露戦争直前の1903年(明治36年)、自著や講義の中で、日本の道義精神をもって世界平和を打ち立てるという「日本化」運動の標語としてこの4文字を提示しました。田中智学自身は独自の宗教的平和論として発案したものの、この言葉は国家の膨張主義と親和性の高い危険な熱量を内包していました。
決定的な変容が訪れたのは、日中戦争の泥沼化と第2次世界大戦の足音が迫る1940年(昭和15年)です。当時の第2次近衛文麿内閣が閣議決定した「基本国策要綱」の冒頭に、次の文言が刻まれました。
「皇国の国是は八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ、先ヅ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
この瞬間、古代の理想を借りた宗教的造語は、大日本帝国の公式な国家目標(国是)へと昇格しました。同年は「皇紀2600年」の記念祝典に沸いた年でもあり、メディアや学校教育を通じて国民の隅々まで八紘一宇の理念が刷り込まれていきました。
さらに1941年(昭和16年)に対米英開戦(太平洋戦争)へ突入すると、八紘一宇は「大東亜共栄圏」の建設を道義的に正当化する絶対的スローガンとして機能します。「アジアを欧米列強の植民地支配から解放し、天皇を中心とする道義的な一家族にする」という崇高な看板のもと、過酷な軍事占領、資源収奪、皇民化教育(言語や文化の強制)が正当化されていきました。理念の崇高さとは裏腹に、現実に生じた軍事侵略と他民族抑圧の象徴として、この言葉は近隣諸国と当事者の記憶に深く焼き付けられることになったのです。