村重の逃亡後、有岡城の留守を預かる家臣たちは信長軍の総攻撃に耐えかね、開城交渉に踏み切ります。信長が突きつけた降伏条件は極めて明確でした。「村重が尼崎城と花隈城を明け渡して降伏するならば、有岡城に残る妻子や一族の命は助ける」というものです。
家臣団は村重に使者を送り、一族の助命のために開城を懇願しました。しかし、村重はこの要求を頑なに拒絶。信長への服従を断固として拒み続けました。この村重の対応に、信長の怒りは頂点に達します。
信長にとって、裏切り者を許さない徹底的な恐怖政治の確立と、配下の武将たちへの見せしめは絶対的な統制手段でした。主君が助命条件を破棄した以上、残された一族を寛大に扱うことは自軍の規律崩壊を意味していたのです。
天正7年12月16日、京都・六条河原において、だしをはじめとする荒木一族の主要な女性や子ども、家臣の妻子ら合計122名以上に及ぶ集団処刑が執行されました。さらに兵庫の七松においても数百人の下女や警護兵が焼き殺されるなど、戦国期を通じても類を見ない大規模な粛清が断行されたのです。