織田信長と明智光秀の関係は良好だった?本能寺の変へ至る愛憎の真相

織田信長と明智光秀の関係は良好だった?本能寺の変へ至る愛憎の真相

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本能寺の変が起きた天正10年(1582年)初頭、織田家内部における主要武将の力関係はどうなっていたのか。信長による知行配分と軍事的裁量権を客観データで比較すると、光秀の異例なポジションがより鮮明になります。

重臣名領国・推定石高(1582年時点)織田家中での立場・主な役割信長からの評価・編集部の分析明智光秀近江志賀郡・丹波一国(約50万石相当)近畿方面軍司令官/朝廷・公家・宗教勢力への外交窓口外様中途採用としては史上最高の抜擢。教養・軍略・政治力を全方位で絶賛される。羽柴秀吉播磨・但馬・因幡など(約60万石相当)中国方面軍司令官(毛利氏攻略担当)足軽出自から台頭した現場叩き上げの天才。光秀と家中ナンバーツーを競うライバル関係。柴田勝家越前一国・加賀・能登(約75万石相当)北陸方面軍司令官(上杉氏攻略担当)/筆頭家老古くからの尾張譜代筆頭。武勇は抜群だが軍事専任で、中央の政治決定からはやや後退。滝川一益上野一国・信濃佐久・小県(約40万石相当)関東管領/東国方面軍司令官(北条氏監視)甲州征伐の武功により急激に東国統治を委任された実力派。遠隔地のため中央政治とは距離。佐久間信盛追放処分(天正8年・石高ゼロへ没落)元・尾張譜代筆頭/本願寺包囲軍総指揮官19カ条の折檻状を叩きつけられ高野山へ追放。功績に胡坐をかいた古参への見せしめ的粛清。

この対比表が示す通り、光秀は決して冷遇されていた臣下ではありません。むしろ中央政界の中心である京都・安土の喉元を任され、軍事と政治の両輪を掌握する「信長の最側近」でした。それだけに、なぜ彼が叛旗を翻したのかという謎は、単純な待遇不満では説明がつかないのです。

佐々木 一輝
著者

佐々木 一輝

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。