朝鮮王朝が清に対して屈辱的な土下座を行うに至った直接の契機は、1636年冬に勃発した「丙子の乱(へいしのらん)」です。しかし、事態の根源はそれ以前の東アジアにおける覇権交代期にありました。
当時の中原では、長年君臨してきた「明」が衰退し、満洲族を束ねたヌルハチが建国した「後金(のちの清)」が急速に勢力を拡大していました。前王の光海君(クァンヘグン)は明と後金の間で巧みな等距離外交(中立外交)を展開していましたが、クーデターによって即位した仁祖と政権与党の西人派は、朱子学的な名分論から「親明排金」へと舵を切ります。朝鮮にとって明は文禄・慶長の役で国を救ってくれた「再造の恩」がある宗主国であり、満洲族を「野蛮な夷狄(いてき)」と見下す価値観が根強く存在していたためです。
後金を継いだ太宗ホンタイジは1636年に国号を「大清」と改め、自ら皇帝を称して朝鮮に君臣関係を結ぶよう要求しました。これを拒絶した朝鮮に対し、ホンタイジは約12万の大軍を率いて親征を決行します。電撃戦を展開する清軍の前に防衛線は次々と突破され、仁祖はわずかな側近とともに逃げ場を失っていくことになりました。