華やかなスポットライトを浴びる一方で、カズのバックボーンにあるのは、現代の育成システムでは考えられないほど過酷な異国でのサバイバルでした。1982年12月、サッカーの名門・静岡学園高校をわずか8か月で中退。「本場のプロになる」という一点の目的のために、ポルトガル語も話せない15歳の少年が単身でブラジル行きの飛行機に乗り込みました。
当時のブラジルは、治安や衛生面も現在よりはるかに過酷な環境でした。所属したCAジュベントスなどのユース寮では、日系人であることへの人種差別的なからかいを受け、盗難や暴力も日常茶飯事。公園のベンチで硬いパンをかじりながら涙を流し、自著『カズ語録』や当時の取材でも「日本に帰りたくても、飛行機代もなければ、高校を中退して出てきた手前、恥ずかしくて帰れなかった」と述懐しています。
転機となったのは、名門サントスFCとの契約、そして地方クラブであるキンゼ・デ・ジャウーへのレンタル移籍でした。ここで実力を評価されたカズは、1990年に再びサントスFCと本契約を結びます。ペレがかつて背負った伝統あるクラブの公式戦でスタメンを勝ち取り、名門パルメイラス戦で鮮やかなゴールを記録。ブラジル全国選手権において、主力としてピッチを駆け回ったアジア人は歴史上カズが初めてでした。本場の目の肥えたサポーターから「カズー!」とチャントで称えられたこの実績こそが、日本サッカーの歴史を動かす出発点となったのです。