ホッパーの名を世界に知らしめた金字塔が、1942年に描かれた油彩画『ナイトホークス(Nighthawks)』です。真夜中のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジの角地にあるガラス張りのカフェに集う、カウンターの男たちと赤いドレスの女性。シカゴ美術館の公式アーカイブや美術史家の分析を紐解くと、この絵画には観る者を無意識に惹きつける「計算された違和感」が幾重にも張り巡らされていることがわかります。
最大の特徴は、カフェの外に出るためのドア(出入口)が一切描かれていない点です。蛍光灯の鋭い光に照らし出された店内は、まるで外界の闇から切り離された巨大な水槽のように浮かび上がっています。カウンターに座る男女の手は触れ合いそうで触れ合わず、店主も含めた4人の視線は決して交錯しません。会話の途切れた沈黙の瞬間だけが、硬質なガラス越しに鑑賞者の視界へと飛び込んできます。
当時の制作ノートによると、赤いドレスの女性のモデルを務めたのはホッパーの妻ジョセフィンであり、男性陣のポーズの多くはホッパー自身が鏡を見ながらスケッチしたものでした。太平洋戦争開戦直後の重苦しい空気が漂うニューヨークで描かれた本作について、ホッパー本人は後に次のような言葉を遺しています。
「私はとくに街の孤独を描こうと意図したわけではない。だが無意識のうちに、大都市の孤独を描き出していたのかもしれない」
彼が意図したのは単なる寂寥感の演出ではなく、近代都市の建造物が持つ冷たいジオメトリー(幾何学的直線)と、そこに迷い込んだ人間の精神的な隔絶でした。鑑賞者はまるで、夜の街を通りかかった通りすがりの観察者(ヴォワイヤール=覗き見者)として、ガラス越しに彼らの静寂を覗き見ることになるのです。