回答兼刷還使の派遣に先立ち、その道を切り拓いたキーパーソンが、朝鮮の救国僧として知られる松雲大師(惟政)です。文禄・慶長の役で僧兵を率いて戦った松雲大師は、1604年、朝鮮国王の命を受け、日本が再び侵略を企てていないかを見極めるため、危険を顧みず対馬を経て京都の伏見城へと渡りました。
当時の記録『四溟堂行録』などによると、徳川家康と対峙した松雲大師は堂々と談判を行い、家康から「朝鮮出兵は秀吉が引き起こした誤謬であり、自らは関知していない。今後は修好を結び、平和を維持したい」という言質を引き出しました。この会見を通じて家康の和平への本気度を見極めた松雲大師は、日本各地に散らばっていた同胞の救出に着手。自ら約3,000人以上(諸説あり)の捕虜を連れて祖国へ帰還するという、奇跡的な成果を上げました。
この松雲大師の偵察と成果を踏まえ、1607年に正式な第1回回答兼刷還使(正使・呂祐吉)が日本へ派遣されることになります。この使節団は、伏見で徳川家康、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と会談し、公式な国交回復を果たすとともに、さらに1,390人もの被虜人を連れ帰ることに成功しました。
しかし、当時の現場記録を紐解くと、帰還は美談ばかりではありませんでした。すでに日本での生活基盤を築き、日本人と家庭を持っていた者や、陶工・学者として大名家に召し抱えられて厚遇されていた者の中には、祖国への帰還を頑なに拒否するケースも多発しました。家族が引き裂かれ、祖国の土を踏むか異国で生き抜くかの二者択一を迫られた人々の葛藤は、戦争が残した深い爪痕を生々しく物語っています。