多くの視聴者を息をのませたシーンは、日本テレビ系の人気バラエティ番組『沸騰ワード10』の密着取材の中で訪れました。練習の合間、リラックスした表情を見せる紀平梨花選手に対してスタッフが向けた何気ない質問。「いま一番食べたいものは何ですか?」――その問いに対して返ってきた答えは、あまりにも純粋で、そして痛烈なプロ意識を物語るものでした。
彼女が口にしたのは、幼少期から大好物だったメロンパンでした。しかし、次の瞬間に続いた言葉が共演者と言葉を失わせます。「あまりにも長い間食べていないので、もうどんな味だったか忘れちゃいました」。
冗談めかして笑う彼女の表情の裏には、トップ選手としてのすさまじい覚悟が滲んでいました。フィギュアスケートにおいて、ジャンプの成否はわずか数百グラムの体重差や重心のブレに直結します。特に女子選手にとって、身体が成長する思春期の体型変化(いわゆるタノ期や体型変化の壁)は、ジャンプの回転軸を大きく狂わせる最大の脅威です。紀平選手は、外側のクッキー生地に大量のバターと砂糖が使われているメロンパンや菓子パン類を、自らの意志で完全に断ち切っていたのです。
当時のインタビューや雑誌の手記を紐解くと、「食べたいという欲求はあるけれど、それを口にして跳べなくなる恐怖のほうが遥かに大きい」という生の告白が残されています。甘い香りに誘われてパン屋の前で立ち止まることはあっても、決してトレイに載せることはない――その徹底した禁欲生活は、ファンが想像する「華やかなトップスケーター」のイメージを覆すほどリアルで過酷な現実でした。