第二次世界大戦後の領土処理を巡り、竹島の法的地位は国際条約によって明確に確定しました。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約の第2条(a)において、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」が明記されましたが、竹島はこの中に含まれていません。
草案作成の過程で、韓国側はアメリカ政府に対して「竹島を日本が放棄する領土に含めるべき」と正式に要請しました。しかし、アメリカ国務次官補ディーン・ラスクは1951年8月10日付の書簡(ラスク書簡)で次のように通告し、韓国の要求を明確に拒絶しました。
「竹島、あるいはリアンクール岩として知られる島に関しては、かつて朝鮮の一部として取り扱われたことがなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にある。この島は、朝鮮によって権利が主張されたとは見られない」
ところが、平和条約発効直前の1952年1月18日、韓国の李承晩大統領は突如として国際法を無視した海洋主権宣言を発令し、いわゆる「李承晩ライン」を公海上に一方的に設定しました。このラインの内側に竹島を取り込み、境界内に侵入した日本漁船を次々と銃撃・拿捕したのです。外務省の記録によると、1965年の日韓基本条約締結までに拿捕された日本漁船は328隻、抑留された日本人漁民は3,929人、死傷者は44人にのぼりました。この軍事的な威圧のなかで韓国は島に警備隊を常駐させ、現在に至る「不法占拠」が定着することとなりました。