盤石に見えた覇権構造は、19世紀末からわずか十数年のあいだに音を立てて崩れ始めました。イギリスが頑なに固執した「栄光ある孤立」をかなぐり捨てざるを得なかった背景には、看過できない3つの構造的危機が横たわっていました。
第1の要因は、ユーラシア大陸全域に牙を剥いたロシア南下政策です。不凍港を求めてバルカン半島、中東、中央アジア、そして極東の満州・朝鮮半島へと触手を伸ばす帝政ロシアの膨張は、イギリスの生命線であるインド航路や中国市場を直接脅かしました。いわゆる「グレート・ゲーム」において、広大な陸上戦力を誇るロシアを海洋国家のイギリス単独で封じ込めることは、もはや物理的な限界点に達していたのです。
第2の要因は、新興帝国ドイツの挑戦です。皇帝ヴィルヘルム2世が掲げた「世界政策(ヴェルトポリティーク)」のもと、ティルピッツ海相が主導した大規模な艦隊法により、ドイツは急速に海軍力を増強しました。北海を挟んだ目と鼻の先で猛烈な建艦競争を仕掛けられたイギリスは、世界中に分散配備していた主力艦艇を本国周辺へ呼び戻さざるを得なくなりました。
そして第3の決定打となったのが、南アフリカで勃発したボーア戦争(南アフリカ戦争、1899〜1902年)です。金とダイヤモンドの利権をめぐり、オランダ系農民(ブーア人)の小国を相手に始めた戦争は予想外の泥沼ゲリラ戦へと発展しました。イギリスは最終的に45万人規模の兵力を投入し、2億ポンドを超える莫大な戦費を浪費した末に辛勝したものの、強制収容所の劣悪な実態が暴かれ、国際社会から猛烈な非難を浴びることになります。
この結果、ヨーロッパ主要国すべてが敵側に回るという悪夢に直面しました。「気高き孤立」と信じていた状態は、一瞬にして「惨めな孤立」へと転落したのです。