展望台や崖の上に立った際、体が凍りついたように動かなくなる現象には、脳神経科学と感覚生理学に基づく明確な理由が存在します。人間が直立二足歩行を維持できるのは、主に3つの感覚器が連携しているからです。耳の奥にある三半規管・耳石器(前庭感覚)、筋肉や関節で床の感触を捉える深部感覚(体性感覚)、そして周囲の情景を捉える視覚情報の3要素です。脳の統合中枢は、これらの情報をミリ秒単位で照合しながら、体の傾きや空間内での位置関係を常に計算しています。
平地を歩いているとき、私たちの網膜には周囲の壁や電柱、地面などの静止した視覚基準(オプティックフロー)が映り込んでいます。しかし、高所に立つと視界の大半が遠方の景色や虚空で占められ、足元のすぐ近くにあったはずの静止基準が一瞬で消失します。その結果、目から入る「空間の基準点」と、足の裏が感知する「平らな床を踏んでいる」という情報、さらに三半規管が検知する微小な揺れとの間に致命的な食い違い(感覚矛盾)が発生します。これがいわゆる高所恐怖症によるめまいの正体です。
航空自衛隊や航空医学の分野でパイロットが自機の傾きや上下感覚を見失う現象を空間識失調(バーティゴ)と呼びますが、高所に立った人間の脳内でもこれと極めて酷似した混乱が起きています。感覚情報が破綻したと判断した脳の偏桃体は、即座に交感神経系へ非常警報を発令します。心拍数を急上昇させ、筋肉を硬直させてその場にしゃがみ込ませようとする防御反応が、私たちが体感する「足がすくむ」「膝の力が抜ける」という現象の正体です。つまり、恐怖反応そのものは危険な落下を回避するためにプログラムされた、生物として正常な生存本能にほかなりません。