この事件を語る上で欠かせないのが、反体制的思想家として異彩を放った北一輝の存在だ。彼の著書『日本改造法案大綱』は、私有財産の制限や皇室を中心とした軍事クーデターによる国家再編を説き、貧困に喘ぐ農村出身の兵士を想う青年将校たちにとって、まさに聖典のような影響力を持っていた。
北自身は直接銃を取って襲撃に参加したわけではない。しかし、青年将校たちと裏で緊密に連絡を取り合い、資金調達や情報共有のアドバイスを行っていた事実が後の裁判記録で明かされている。暗殺実行犯だけでなく、理論的支柱であった北までもが軍事裁判で処刑されたことは、軍部が自らの思想的抑止力を失い、かえって軍部独裁への道を加速させる皮肉な結果を生むこととなった。