日本国内からスイスの自死幇助団体へコンタクトを取ろうとする当事者は少なくありません。しかし、その申請プロセスの途上で大多数が脱落します。そこには、制度の思想や理念以前に、「日本の医療システムとの構造的断絶」という冷酷な壁が存在するからです。
過去にメディアの特番取材に応じた日本人当事者や、遺族が残した手記・記録を精査すると、判で押したように同じ絶望的なプロセスが浮かび上がります。
第一の壁は、「日本の主治医からの協力が得られないこと」です。スイスの団体が精神疾患の審査で求めるのは、「過去10〜20年に及ぶ詳細なカルテの開示」「投薬履歴のすべて」「どのような心理療法・入院治療を施し、なぜ治癒しなかったのかという医学的総括」、そして「患者が現在、冷静な意思決定能力を保持しているという精神科医の公式見解」です。
しかし、日本の刑法第202条には「自殺関与罪(自殺幇助罪)」が存在します。日本の精神科医が「スイスで自死幇助を受けるための診断書」を作成した場合、法的に自殺幇助の共犯を問われるリスクや、日本精神神経学会の倫理規定に抵触する恐れがあります。そのため、主治医に相談した瞬間に「これ以上の書類作成は拒否する」「当院では一切協力できない」と関係を断絶されるケースが後を絶ちません。
第二の壁は、「膨大な医療文書の公的翻訳と認証」です。カルテや鑑定書はすべて英語、ドイツ語、あるいはフランス語に翻訳する必要があります。精神医学の専門用語が散りばめられた数百ページに及ぶカルテの医療専門翻訳費用だけで数十万円から100万円単位の出費を強いられます。さらに、公証役場でのアポスティーユ(公的認証)取得など、精神的に追い詰められた患者が単身で遂行できる作業量をはるかに超えています。
海外のフォーラムやSNSのコミュニティでも、日本からの申請者が「審査の事前段階(医療書類の提出段階)で書類の不備を指摘され、数年放置されている」「メールの返信が途絶えた」といった苦悩の声を投稿している実態が確認できます。身体疾患で余命宣告を受けているケースとは異なり、精神疾患を理由とする申請は、スイス側から「追加の精神鑑定書」を際限なく求められ、最終的な「グリーンライト(仮承認)」にたどり着く前に力尽きるケースが圧倒的多数なのです。