多くの観客が抱く最大の誤解は、「ディズニー版は結末を無理やりハッピーエンドに変えた軟弱な改変である」という短絡的な見方です。確かに、1831年に発表されたヴィクトル・ユゴーの原作『ノートルダム・ド・パリ』の結末は、救いようのない地獄絵図でした。 原作小説では、エスメラルダはフロローの密告によって絞首刑に処され、その死を見届けたフロローは狂笑の果てにカジモドによって鐘楼から突き落とされます。そして数年後、処刑場跡の遺骨収容所で、骨片となったエスメラルダの遺体にしっかりと抱きついたまま白骨化したカジモドの遺体が発見され、引き離そうとすると砕け散ったという、文学史上最も悲劇的で凄惨な幕切れを迎えます。 しかし、劇団四季版(海外ミュージカル版)の脚本と歌詞を精査すると、ディズニーは決して現実逃避をしたわけではないことが浮き彫りになります。 ミュージカル版では、エスメラルダは炎と煙による窒息で命を落とし、フロローはカジモドの手によって転落死します。カジモドは冷たくなったエスメラルダの遺骸を抱きかかえ、大聖堂の闇へと消えていきます。ディズニーは映画版において、アニメーションという媒体の要請から生命の肯定を選択しましたが、劇団四季の舞台版では「ユゴーの原作が持つ不条理な宿命劇」と「メンケン音楽の美しさ」を高次元で融合させるためのハイブリッドな歌詞改訂を断行しました。 ネット上で散見される「四季版はアニメと違って後味が悪い」という感想は、作品が本来持つユゴー文学の原点へと回帰した結果に対する、至極真っ当な反応なのです。
『ノートルダムの鐘』歌詞の残酷な伏線と祈り|四季とアニメの決定的な差
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