山南敬助を巡る歴史的な議論の中で、長年ネット上や歴史ファンの間で誤解されがちなのが「なぜ彼は大津という近場で簡単に捕まったのか」という点と、「現在に続く子孫がいるのか」という家系の謎です。
まず脱走経路の真相についてですが、山南は京都を出てわずか十数キロの大津(草津の手前)で沖田総司に追いつかれ、一切の抵抗をせず素直に壬生へ同行しています。剣術の達人である山南が本気で逃亡を図るならば、変装して変名を使い、追っ手を撒く手段はいくらでもありました。にもかかわらず宿屋でゆったりと逗留していた事実は、彼が「逃げるため」ではなく、自らの命を差し出して近藤・土方に抗議する「諫死(かんし)」を選んだことを物語っています。
また、「山南敬助の子孫は現在も続いているのか」という疑問もしばしば議論の的になります。山南は仙台藩出身(あるいは江戸詰めの仙台藩士の子)とされ、本姓は「藤原」、名は「知信」と伝わります。京都では妻帯しておらず、明里との間に確認された子供はいません。仙台の生家周辺や一族の血筋を追う郷土史家の調査によれば、直系の子孫は途絶えているものの、分家や親族の系統は東北地方を中心に現存していると報告されています。公式な家系図上で「山南敬助の直系」を名乗る人物は現存せず、その血脈の多くは謎のベールに包まれたままです。