三光神社の社殿下、石垣の奥に口を開ける洞穴こそが、有名な「真田の抜け穴」です。伝承では、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、真田幸村が大坂城(現在の大阪城)本丸から真田丸へ秘密裏に行き来するため、あるいは緊急時の脱出用として掘削した地下通路とされています。
しかし、近年の歴史研究や発掘調査の進展によって、その実態には複数の学説が提示されています。代表的なのが以下の3つの視点です。
第一に、「真田丸の通信・補給用の塹壕(ざんごう)説」です。真田丸は単なる砦ではなく、複雑な堀や土塁、地下連絡網を備えた強固な複合要塞でした。城内との往来というよりは、兵の移動や物資集積に用いられた空間の一部であった可能性が指摘されています。
第二に、「徳川方の攻城用坑道(竜道)説」です。大坂冬の陣において、力攻めを諦めた徳川軍が真田丸の城壁を崩すために地下から掘り進めた坑道跡が、戦後に幸村伝説と結びついて語り継がれたという見解です。
第三に、「旧陸軍の防空壕・地下施設転用説」です。真田山一帯は明治期以降、陸軍の墓地や軍事用地として使われた歴史があり、近代の地下構造物が古絵図の抜け穴伝承と重なり合って現在に至るという側面も議論されています。いずれの説にせよ、この地が戦国から近代に至るまで軍事的重要拠点であり続けた証左にほかなりません。