「最後の直線、大外から豪脚を繰り出してグングン加速した!」実況アナウンサーが絶叫し、スタンドのファンが総立ちになる競馬屈指の見せ場です。しかし、ここに人間の脳と視覚が生み出す決定的な「誤解」が存在します。
スポーツバイオメカニクスやレースデータの精密分析によると、競馬の直線最高時速の真相は「加速」ではなく「減速の度合いの差」であることが証明されています。競走馬がレース中に最も高い速度を記録するのは、多くの場合「スタート後200〜400mのポジション争い」または「コーナーを回って直線に入った直後」です。
日本の競馬で極めて重要視される指標に「上がり3ハロン(最後の600m)」があります。芝の良馬場において、トップクラスの競走馬が叩き出す競馬の上がり3ハロン速度は33秒台前半から32秒台です。計算すると次のようになります。
- 上がり3ハロン33秒0:平均時速約65.45km(200mあたり11秒0)
- 上がり3ハロン32秒4:平均時速約66.67km(200mあたり10秒8)
- 上がり3ハロン31秒9(新潟直千などの極限値):平均時速約67.71km(200mあたり10秒63)
競馬界の伝説として語り継がれるディープインパクトの最高時速に関しても、ファンの間では「直線で時速75kmや80km出していたのではないか」という都市伝説が根強く囁かれてきました。2005年の若駒ステークスや日本ダービーで見せた、他馬が止まって見えるような「飛ぶ」走調は今なお語り草です。
しかし、当時のラップタイムを1ハロン(200m)単位で詳細に紐解くと、ディープインパクトが記録した区間最速ラップはおおむね10秒2〜10秒5前後。これを時速換算すると時速68.5km〜70.5km前後となります。直線半ばで瞬間的に時速71km前後に達した可能性は極めて高いものの、80kmなどの荒唐無稽な速度ではありません。
では、なぜあれほど圧倒的な加速に見えるのか。先行馬が疲労困憊して時速58km程度まで失速している横を、ディープインパクトが時速68kmを維持したまま通過したため、相対速度の差(時速10km以上の開き)によって「異次元の急加速」として網膜に焼き付けられたのです。認知心理学における「動体視差の罠」が、直線の奇跡をドラマチックに演出していたわけです。