本土の一般的な墓地といえば、1〜2坪ほどの区画に縦型の和型墓石や横型の洋型墓石が整然と並ぶ姿が思い浮かびます。対して沖縄のお墓は、敷地が数十坪におよぶことも珍しくありません。なぜこれほどまでに巨大な空間が必要とされたのでしょうか。そこには、沖縄独自の葬制の歴史と家族組織のあり方という2つの決定的な理由が存在します。
第1の理由は、かつて沖縄全域で広く行われていた「風葬」と「洗骨(シンクチ)」という葬送儀礼です。沖縄では近代に至るまで、遺体をすぐに火葬・土葬するのではなく、墓室内に遺骸を安置して数年間自然風化を待ちました。その後、肉が朽ちた段階で親族の女性たちが遺骨を海水や泡盛で洗い清め、骨壺(厨子甕=ジーシガーミ)に納めて墓の奥へ永久安置したのです。そのため、遺体を安置する前室、骨壺を何世代分も並べる階段状の棚、さらには親族が集まって洗骨の儀式を執り行うための広い前庭(ウナー)と袖石(ソデシ)が構造上どうしても不可欠でした。
第2の理由は、父系の血縁共同体である「門中(ムンチュー)」の存在です。個人や一家族単位ではなく、共通の始祖から枝分かれした数十〜数百人規模の親族一同が一つの巨大な墓に入ります。必然的に、何世代にもわたる大量の骨壺を収容できるだけの「家」同等の容積が求められたのです。
沖縄の代表的な伝統墓郭は、その形態によって主に3種類に大別されます。
最も広く知られているのが亀甲墓(かめこうばか/カーミナクーバカ)です。中国南部(福建省)の墳墓様式が17世紀後半の琉球王国時代に伝来したもので、亀の甲羅のようなアーチ状の屋根と、緩やかな曲線を描く外壁が特徴です。この形状は単なる意匠ではなく、「女性の子宮(胎内)」を象徴していると伝えられています。人は母の胎内から生まれ、死後は再び母の胎内へ還っていくという「母胎回帰」の強烈な死生観が、この巨大な造形に凝縮されているのです。
一方、屋根が切妻造りの破風屋根になっているのが破風墓(はふうばか)です。国宝に指定されている首里の「玉陵(たまうどぅん)」がその最高峰であり、かつては王族や高級士族だけに許された最高格式の墓形式でした。明治以降に庶民への規制が解かれ、各地に広まりました。そして昭和以降、鉄筋コンクリート技術の普及とともに急増したのが、現代住宅のような陸屋根や切妻屋根を持つ屋形墓(やかたばか/ヤカタバカ)です。いずれの形式であっても、死者の眠る空間を「後世(グソー)の家」とみなす思想は共通しています。