山岡久乃さんの降板を巡っては、当時の一部週刊誌が「脚本の橋田壽賀子との対立が原因ではないか」とセンセーショナルに書き立て、山岡久乃と橋田壽賀子の不仲説が一人歩きした経緯があります。その根拠として挙げられたのが、「長台詞への不満」や「登場人物の性格設定を巡る衝突」でした。
確かに橋田ドラマ特有の、数ページに及ぶ長台詞を一言一句変えずに演じ切るスタイルは、演劇界出身で徹底したリアリズムを追求する山岡さんにとって、凄まじい精神集中と肉体的負担を強いるものでした。現場での真剣勝負ゆえに、演出や台詞のニュアンスを巡って熱い議論が交わされたことは関係者の間でも知られています。しかし、それは作品の完成度を高めるための表現者同士のぶつかり合いであり、人間的な決裂ではありませんでした。橋田壽賀子さんは名作『となりのお芝生』や『おしん』をはじめ、自作の重要な母親役に山岡さんを指名し続けており、誰よりもその演技力を深く信頼していた盟友だったのです。
また、ネット検索で散見される渡鬼の母親交代というキーワードも、事実とは異なる誤解の一つです。父親役の岡倉大吉を演じた藤岡琢也さんは、2006年に肺炎を発症して療養に入った際、ドラマの継続性を重視して宇津井健さんへとバトンタッチ(キャスト交代)が行われました。一方で、母親・節子に関しては代役を立てるという選択肢は一切取られませんでした。「岡倉節子は山岡久乃以外にあり得ない」という制作陣と橋田壽賀子さんの強い敬意により、代役ではなく「劇中での逝去」という脚本上の決断が下されたのです。
さらに、視聴者の記憶の中で強烈な印象を残しているのが、もう一人の巨大な母親像である「幸楽」の姑・小島キミを演じた赤木春恵さんです。嫁の五月(泉ピン子さん)を徹底的にいびる姑役として日本中の注目を集めた赤木さんと、実家で娘たちを無条件に包み込む山岡久乃さんという対比構造こそが、作品を支える二大巨頭でした。この二人の偉大な名女優がいたからこそ、渡鬼のドラマツルギーは成立していたといえます。