死期を悟った家康は、駿府城の病床において極めて冷静に政治的後処理を進めました。二代将軍・徳川秀忠や側近の南光坊天海、金地院崇伝、本多正純らを枕元に呼び寄せ、複数の重要な遺言を残しています。
家康が秀忠に伝えた最後の言葉として名高いのが、「天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり」という統治理念です。私利私欲による専制を戒め、民を安んじる政を敷くよう厳命しました。さらに、臨終に際しては自らの埋葬と神格化について以下のような具体的な指示を書き遺しています。
「遺体は駿府の久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に安置し、一周忌が過ぎたのちに下野の日光山へ小堂を建てて勧請せよ。関八州の鎮守とならん」
自らを神(東照大権現)として日光に祀らせることで、江戸の北方を霊的に守護し、徳川家による恒久的な平和体制を盤石なものにする狙いがありました。肉体ががんに冒され激痛に苛まれる極限状態にあっても、国家百年の計を見据えていた戦略家としての冷徹さが窺えます。