世界史の教科書において、ドイツの3B政策と真っ向から衝突したとされるのが、覇権国家イギリスが敷いたイギリス3C政策です。両者の戦略的対立は、単なる領土の取り合いではなく、世界の海洋と陸上交通をめぐるインフラの覇権争いでした。
イギリスは、エジプトのカイロ(Cairo)、南アフリカのケープタウン(Cape Town)、そして「大英帝国の王冠の輝く宝石」と呼ばれたインドのカルカッタ(Calcutta、現コルカタ)の3拠点を結び、アフリカ大陸の縦断とインド洋の完全掌握を目指していました。イギリスにとって海上交通路(シーレーン)、とりわけスエズ運河から紅海、インド洋へと至る航路は国家存亡に関わる生命線でした。
そこに割り込んできたのが、陸上からの圧倒的な高速輸送を可能にするドイツの鉄道網です。ベルリンからバグダードを経てペルシア湾へ抜けるルートが完成すれば、イギリス艦隊の海上封鎖を無力化できるだけでなく、イギリス本国からインドへの航路を側面から脅かすことになります。この地政学的脅威こそが、帝国主義対立理由の中核でした。
さらに、バルカン半島から海峡地帯への進出は、スラヴ系諸民族の保護者を自任し地中海への出口を求めていたロシア帝国の「南下政策」とも完全にバッティングしました。これにより、ロシアのパン=スラヴ主義とドイツの後援を受けたオーストリアの対立が決定的に悪化し、のちにバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる下地が整っていったのです。