「羊肉は臭いから苦手」という先入観を持つ人は少なくありませんが、この風味の正体は腐敗臭ではなく、羊の生体システムに由来する化学的な香気成分です。その決定打となるのが、脂質に含まれる分岐鎖脂肪酸(BCFA:4-メチルオクタン酸、4-メチルノナン酸など)と、葉緑素(クロロフィル)が第一胃(ルーメン)で微生物分解されて生じるフィトール由来の代謝物です。
草食動物である羊は、牧草を反芻しながら胃の中の微生物の力で消化します。成羊になって大量の青草を長期間摂取し続けると、脂肪組織の中に特有の脂肪酸が蓄積していきます。これがマトン特有の「重厚で野性的な芳醇さ」を生み出すメカニズムです。加熱調理時に脂が溶け出すことで、この香気成分が揮発し、あの力強いアロマが鼻腔を刺激します。
対照的に、ラムは牧草を食べる期間が短いか、あるいは母乳主体の期間が長いため、脂肪組織への分岐鎖脂肪酸の蓄積がほとんどありません。そのため、ラム肉の香りは極めて穏やかで、牛肉や豚肉に近い感覚で食べられる軽やかさを備えています。
かつて昭和から平成初期にかけて日本で流通していた輸入マトンは、羊毛の採取役目を終えた老齢羊を冷凍状態で輸入し、解凍管理が杜撰だったケースが多々ありました。その結果、脂肪の酸化臭が特有の香気と混ざり合い、「マトン=不快な臭い」という誤ったトラウマが植え付けられてしまった歴史的背景があります。現在日本に届く羊肉は、徹底したチルド空輸技術と温度管理により、酸化臭のないピュアな「芳醇なミルク香(ラム)」または「深みのあるハーブ香(マトン)」として楽しむことができます。