「停止中」という張り紙を見て、視覚的にも動いていないことを完全に認識しているにもかかわらず、なぜ身体はフワリとした違和感を覚えるのか。その決定的な理由は、「大脳皮質が司る意識的な認識」と「小脳や大脳基底核が司る無意識の運動制御」の間に強烈なタイムラグと乖離が生じるためである。
人間の脳は、過去の膨大な経験から環境に適応するための運動プログラムを蓄積している。普段エスカレーターに乗る際、足元が前方に加速することを見越して、無意識に重心を前傾させたり足首の筋肉を硬直させたりする「運動制御における脳の予測(フィードフォワード制御)」を行っている。この自動化されたプログラムは非常に強力で、視覚によって「静止している」という情報が大脳に届いていても、エスカレーター特有の縞模様(コーム)やステップの形状を目にした瞬間に、小脳が無意識に「動く床用の姿勢制御スイッチ」を勝手に入れてしまうのだ。
イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンの神経学者レイモンド・レイノルズ博士やアドルフォ・ブロンシュタイン教授らの実験(2003年発表)では、被験者に「これから動かない台に乗る」と事前に繰り返し説明していても、直前に動く台に乗る経験を繰り返した後では、静止台に踏み出す際に無意識に歩行速度が上がり、過剰な前傾姿勢と筋活動の増大が確認された。意識の命令よりも、身体に刻まれた自動プログラムのほうが速く強く作動してしまうことこそが、壊れたエスカレーター現象の脳科学的な理由である。