黒川温泉「洞窟風呂」混浴ルールと危険性は?手掘りの歴史と新明館の全貌

黒川温泉「洞窟風呂」混浴ルールと危険性は?手掘りの歴史と新明館の全貌

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黒川温泉が全国屈指の温泉地へと飛躍した背景には、新明館の3代目館主であり、後に「黒川温泉の育ての親」と称された故・後藤哲也(ごとう てつや)氏の凄まじい執念が存在します。

昭和30年代後半から40年代初頭にかけて、黒川温泉は阿蘇の山奥にある無名の湯治場に過ぎず、温泉街のメインストリートから川を挟んだ奥まった場所にあった新明館には、客がほとんど寄り付かない苦境が続いていました。「お客が来ないなら、ここにしかない、わざわざ訪れたくなる唯一無二の名物風呂を造るしかない」――そう決意した後藤氏が選んだ手段が、裏山の固い岩盤を手作業で掘り進めることでした。

周囲の住民や家族から「山が崩れる」「無謀だ」と猛反対され、時には変人扱いされながらも、後藤氏はツルハシとノミを手に、たった1人で岩盤に向き合い続けました。当時のインタビューや手記において、後藤氏は「1日かけて掘り進められるのはわずか数十センチ。それでも毎日掘り続ければ、いつかは必ず人が入れる空間になる」と述懐しています。

実に約10年の歳月を費やし、全長約30メートル、大人が立って歩ける手掘り洞窟風呂(通称・穴風呂)が完成しました。岩肌を流れる源泉の温もり、地中深くから漂う神秘的な湯煙、そして職人の執念が刻み込まれたノミの跡。この圧倒的な世界観が口コミで広まり、テレビや雑誌で特集されたことを皮切りに、新明館には全国から旅行者が殺到することとなりました。

後藤氏の挑戦は自館の成功にとどまらず、黒川温泉全体の景観づくり(木々を植え、看板を統一し、街全体を一つの旅館に見立てる構想)や、後述する「入湯手形」の発案へと結実し、黒川温泉の奇跡の復活劇を牽引する原動力となったのです。

吉田 誠
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吉田 誠

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