軍記物やドラマなどでは「冷酷な信長に対し、信心深い明智光秀が涙ながらに焼き討ちの中止を嘆願した」という描写が好まれます。しかし、一次史料が示す光秀の姿は全く正反対です。
光秀は作戦立案の段階から中心人物として深く関与していました。近江の地侍である和田秀純に宛てた光秀の書状には、焼き討ちの直前に「比叡山麓の敵対勢力を一人残らず殲滅せよ」と冷徹に指示する内容が克明に残されています。
焼き討ちの完遂後、信長はその功績を最大級に評価し、光秀に近江国志賀郡(現在の滋賀県大津市周辺)の支配権を与えました。光秀はここに名城として名高い坂本城を築き、織田家中での出世街道を一気に駆け上がることになります。比叡山攻めは、光秀にとって軍司令官としての地位を確立する決定的な契機でした。