信長が悪名を背負う決定打となったのが、元亀2年(1571年)の「比叡山焼き討ち」です。女人や子どもまで数千人を皆殺しにした狂気の沙汰と語り継がれてきましたが、近年の考古学的発掘調査や史料の再検証により、その実態は大きく異なっていたことが判明しています。
滋賀県立安土城考古博物館などの調査では、根本中堂をはじめとする主要な堂塔の焼失痕跡は限定的であり、全山が火の海になったわけではないことが裏付けられました。信長は焼き討ちを実行する前に、再三にわたって中立の勧告書を送っており、朝倉・浅井軍への軍事支援をやめるよう猶予を与えています。それを無視して世俗権力として武力敵対を続けた延暦寺に対し、法と軍律を執行したのが真相です。
青年期に「尾張の大うつけ」と呼ばれた奇行の数々も同様です。派手な異国風の着物を着崩し、縄を帯代わりに腰に巻いて歩いた行動は、単なる不良行為ではありませんでした。旧態依然とした身分秩序に縛られた家老たちの目を欺きつつ、既成概念にとらわれない若手の実力者を登用し、最新の軍事戦術を試行するための計算されたカモフラージュだったのです。信長の短気や癇癪と受け取られがちな苛烈さの根底には、常に無駄を削ぎ落とし最短ルートで目的を達成しようとする徹底的な合理主義が存在していました。