1937年末の南京攻略戦において、松井は持病の結核が悪化し、最前線から離れた蘇州の後方司令部で床に就いていた。この健康状態と指揮権の実態が、後の裁判および歴史的評価の大きな論点となる。南京入城後、軍紀の乱れや非行の報告を受けた彼は激怒し、部下の将兵を集めて涙ながらに軍紀弛緩を厳しく叱責したと記録されている。
しかし、東京裁判は「部下の不法行為を阻止できなかった責任」を重く見た。法廷での松井は自らの過失を認める一方、過剰な残虐行為の組織的指示については否定を貫いた。最終的に絞首刑の判決が下され、1948年12月に巣鴨プリズンで刑が執行された。指揮官としての道義的責任と法的な罪状の境界線は、今なお国際法学者や戦史研究者の間で激しい議論の対象となっている。