激痛に苦しんだ数日後、「嘘のように痛みが完全に消え去った」という経験をした人は少なくありません。しかし、これこそが歯科医療における最大の罠であり、患者を最も危険な状態へと追い込む正常性バイアスの発現です。
人体において、自然治癒する臓器や組織は数多く存在しますが、硬組織に囲まれた「歯の神経(歯髄)」は一度不可逆的な壊死を起こすと、自然に再生することは絶対にありません。ズキズキとした激痛が突如として消失した理由は、虫歯が治ったからではなく、炎症の圧力によって神経線維が完全に死滅し、痛みの信号を脳へ伝達できなくなったからに過ぎません。
痛みが引いたからと安心して歯科受診を怠ると、壊死した神経組織は歯髄腔のなかで腐敗を続け、嫌気性細菌の温床となります。細菌毒素は根の先端から顎の骨へと流出し、骨を徐々に溶かしながら「顎骨骨髄炎」や、顔面全体が風船のように腫れ上がる「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」といった、入院加療や外科的切開を要する重篤な全身疾患へと発展します。最悪の場合、菌が縦隔へ下降して縦隔炎を引き起こし、生命に関わる事態に直面することすらあります。
歯科医師の臨床的判断基準において、以下に該当する症状が見られる場合は、一刻の猶予もない緊急事態です。翌朝の受診を待つのではなく、直ちに救命救急や当番医の手配を検討してください。
- 顔面や顎の下、首にかけて明らかな腫れや熱感が生じている
- 口を指2本分以上開けることができない(開口障害)
- 38度以上の高熱や悪寒、倦怠感が伴っている
- 唾液や水分を飲み込む際に激しい喉の痛みがある(嚥下障害)