竹鶴政孝とリタを巡っては、インターネットやSNS上でドラマの印象と史実が混同され、いくつかの決定的な誤解が流布しています。現場の取材記録と社史資料から、これらの誤認を正します。
誤解1:竹鶴政孝と鳥井信治郎は生涯絶縁状態だった?
ネット上では「両社が敵対関係になり、泥沼の絶縁劇を演じた」という言説が散見されますが、これは明白な誤りです。二人は製造思想の違いから袂を分かったものの、互いの才能を生涯リスペクトし続けていました。1961年にリタが亡くなった際、大阪の鳥井信治郎から真っ先に届いたのは、長文の悔み電報と巨大な生花でした。翌年、鳥井が逝去した際には政孝も深い哀悼の意を捧げており、二人の関係は「終生のライバルであり、最大の理解者」でした。
誤解2:リタは本当はスコットランドに帰りたがっていた?
戦時中の苦難から「望郷の念に駆られて後悔していたのではないか」という憶測がありますが、リタ自身が残した日記や手紙には、政孝への揺るぎない信頼が終生綴られています。リタは余市の気候と人々を愛し、自らの手で日本風の家庭料理を極めました。晩年、里帰りを勧められた際も「私の家は余市です」と断り、現在は余市蒸溜所を見下ろす美馬牛(びばうし)の丘で、政孝と共に静かに眠っています。