1931年9月の満洲事変勃発後、天津の旧日本租界に身を寄せていた溥儀のもとへ関東軍の特務機関長・土肥原賢二が接触を図りました。溥儀にとって最大の動機は、1912年に失った「大清帝国皇帝の座への復帰」と祖先の地である満洲での王朝再興にありました。しかし、1932年3月1日の満洲国建国宣言において溥儀に用意された座は、皇帝ではなく国家元首を意味する「執政」という役職でした。
この処遇に対し、溥儀は当初「帝制(君主制)でなければ満洲へは行かない」と猛烈に反発しました。自著『わが半生』によれば、板垣征四郎高級参謀との直談判の際、溥儀は「大清国皇帝の尊厳を傷つけるものである」と激怒し、執政就任を頑なに拒否したと記されています。
これに対し、関東軍側が「執政」にこだわった理由は国際世論への配慮でした。国際連盟による批判をかわすため、満洲国は「満蒙諸民族の自発的意志に基づく新国家」であり、専制君主制ではなく近代的な共和制国家の体裁をとる必要があったのです。板垣は溥儀に対し、「執政就任はあくまで過渡的な暫定措置であり、国家体制が整えば速やかに帝政へ移行する」という密約を提示しました。皇帝復位の野望を捨てきれない溥儀はこの甘言を受け入れ、不本意ながらも「満洲国執政」への就任に同意することとなりました。