この学術的快挙の裏には、後世の数学者たちを涙させる劇的な人間ドラマが存在します。発想の源泉となった谷山豊(1927–1958)と、それを精緻な数学体系へと鍛え上げた志村五郎(1930–2019)のコントラストです。
谷山は、周囲から「間違えることにかけての天才」と愛情を込めて評された直観型・ひらめき型の数学者でした。志村は自著『記憶の切絵図』や海外向けの手記において、盟友・谷山について「彼は非常に多くの間違いを犯したが、その間違いは常に正しい方向へと向かう特別な才能に満ちていた」と回想しています。
しかし、栄光の未来が約束されていたはずの谷山は、1958年11月17日、31歳の若さで自ら命を絶ちました。結婚を間近に控え、新居のアパートも契約した矢先の悲劇でした。遺されたノートには、あまりにも静かで不可解な遺書が記されていました。
「昨日まで、特段死のうと思っていたわけではない……ただ、何か特別な事件や理由があるわけではない。ただ最近、少しく疲れ、将来に対する自信を失ったに過ぎない」
さらに悲痛を極めたのは、そのわずか1カ月後、谷山の婚約者であった鈴木美佐子さんも「天国で結ばれたい」と後を追って自死を遂げたことです。残された志村五郎の喪失感と孤独は計り知れないものでした。志村は後にアメリカのプリンストン大学教授へと転じ、厳格で妥協のない孤高の数学者として、谷山とともに掲げた予想を厳密な定理群へと磨き上げていきました。海外の数学関係者がこのエピソードを知るとき、冷徹な論理の世界の奥底にある人間の儚さと執念に激しく心を打たれるのです。