シベリア出兵はなぜ、得られる果実が皆無であるにもかかわらず7年間も継続し、無残な失敗に終わったのでしょうか。その本質は、近代日本の国家指導部が抱えていた組織構造の致命的欠陥にあります。
第1の失敗要因は、「作戦目的の喪失」です。1920年春までにチェコスロバキア軍の救出は完了し、日本が支援していた白軍のコルチャーク政権も崩壊しました。米英仏軍は「出兵の目的は達せられた」として即座に部隊を撤収させます。しかし、東シベリアに権益を打ち立てたい日本陸軍参謀本部は、「極東の治安維持」「居留民保護」「赤化防止」と次々に理由を付け替え、兵力を居座らせ続けました。目的と手段が完全に逆転した典型例です。
第2の要因は、「軍部の独走と統帥権の壁」です。政党内閣を率いた原敬首相は、巨額の戦費浪費と国際社会からの孤立を危惧し、早期撤兵を模索していました。しかし、明治憲法下の「統帥権の独立」を盾にする上原勇作参謀総長ら陸軍軍令部は、内閣の外交方針や撤兵要求に頑強に抵抗しました。政治が軍事をコントロールできない「シビリアン・コントロールの不全」という病理は、すでにこのシベリア出兵の時点で露呈していたのです。
1921年11月、原敬が東京駅で暗殺されたことで撤兵工作は一時停滞しますが、同月に開催されたワシントン会議において、米国から名指しでシベリア駐兵の不当性を厳しく追及されます。孤立無援となった日本はついに屈服。1922年、海軍軍縮条約を調印した加藤友三郎内閣のもとで沿海州からの完全撤兵を決定しました。
最終的に1925年、ソ連との国交を樹立した日ソ基本条約の締結をもって北樺太からも撤兵。日本が得たものは、北樺太の石油・石炭採掘権の一部のみであり、失った「10億円の国費」「3,500名以上の人命」「国際社会からの信用」に比べれば、あまりにも悲惨な大敗北でした。