この慣用句が生まれた背景には、日本の合戦史、とりわけ鎌倉時代の蒙古襲来(元寇・1274年文永の役、1281年弘安の役)における過酷な戦闘実態が深く関わっています。
当時、世界帝国としてユーラシア大陸を席巻していたモンゴル軍は、集団戦術と火薬兵器「てつはう」、毒矢を駆使して圧倒的な軍事力で博多湾に押し寄せました。これに対し、名乗りを上げて一騎討ちを挑む伝統的な作戦をとっていた鎌倉武士団は、戦術の違いから当初甚大な損害を被ります。
当時の戦況を描いた『蒙古襲来絵詞』などの記録にも残されている通り、味方の陣形が総崩れとなり、大勢が決した絶体絶命の包囲下にあっても、武士たちは決して白旗を掲げませんでした。撤退を余儀なくされる中でも、馬を反転させ、迫り来る敵軍の指揮官や騎兵に向けて弓を引き絞り、必死の思いで放った「最後の一矢」。その矢一本で戦争全体の勝敗が覆るわけではありません。しかし、その一撃には「我が武門の誇り、ここにあり」という強烈な意思表示が込められていました。
日本語において「矢」は、単なる武器を超えて「意思」や「気概」の象徴として扱われます。「大軍を壊滅させる」のではなく、あえて「一矢(たった一本の矢)」と表現される点に、日本古来の美意識と、非力であっても不正や威圧に唯々諾々と従わない反骨精神の結晶を見出すことができます。