京都駅の烏丸中央口から北へ歩を進めると、烏丸通沿いに圧倒的な威容を誇る真宗本廟(東本願寺)の御影堂門が姿を現します。そこからわずか西へ徒歩15分ほどの堀川通沿いには、もう一つの巨大な本山である西本願寺が鎮座しています。なぜこれほど至近距離に二つの「本願寺」が並立し、本願寺派との違いや理由が4世紀以上にわたって語り継がれているのでしょうか。
宗教法人法上の包括宗教法人としての正式名称は「真宗大谷派(しんしゅうおおたには)」であり、古くから門徒や地域社会の間では「大派(だいは)」「谷派(たには)」、そして西本願寺の東側に位置することから親しみを込めて「お東(おひがし)」の通称で呼ばれています。文部科学省の『宗教年鑑』および教団公表データによると、真宗大谷派は全国に約8,600ヶ寺の寺院・教会を擁し、門徒・信徒数は約700万人規模に達する日本仏教界屈指の大教団です。2020年(令和2年)7月には、第25代大谷暢顯門首(現・前門)の退任に伴い、2011年11月に鍵役・開教司教に就任し2014年4月に後継者選定されていた第26代大谷暢裕(おおたに・ちょうゆう)門首が就任し、現代の教団運営と法灯の継承を担っています。
両派が分かれた決定的な歴史の転換点は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての1602年(慶長7年)に遡ります。当時、第11代宗主・顕如(けんにょ)上人に率いられた本願寺教団は、織田信長との11年間に及ぶ「石山合戦(1570〜1580年)」を戦い抜きました。正親町天皇の勅命による講和が成立した際、徹底抗戦を主張して信長に対峙し続けたのが顕如の長男である教如(きょうにょ)上人であり、和平派であった父・顕如や三男の准如(じゅんにょ)上人との間で政治的・教団運営上の路線対立が生じました。
顕如の没後、豊臣秀吉の裁定によって一度は弟の准如が本願寺(現在の西本願寺)の法主を継ぐことになりましたが、教如を慕う北陸や東海地方の門徒衆は強く反発し、独自の教団活動を継続します。そして関ヶ原の戦い後の1602年、天下の実権を握った徳川家康が、強大な動員力と経済力を持つ本願寺教団の勢力を二分して統制しやすくする政治的意図もあり、教如に対して烏丸六条・七条の広大な寺地を寄進しました。これにより東本願寺が創建され、准如を第12代とする本願寺派(お西)と、教如を第12代とする大谷派(お東)という二つの本願寺が歴史上に確立されたのです。
もっとも、歴史的な組織分裂を経たとはいえ、その根底に流れる親鸞聖人の教えと特徴に本質的な乖離はありません。鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗は、厳しい自力修行を積むことが困難な在家の人々であっても、阿弥陀如来の本願力(他力)に帰依し、心に一点の疑いもなく「南無阿弥陀仏」と称えることで等しく救われ仏になれると説きます。歴史資料を紐解くと、親鸞自身は著述の中で「浄土真宗の宗祖は自分ではなく、師である法然(源空)上人である」と謙虚に記している事実も残されています。また、興味深い国際比較として、英語圏への布教表記において本願寺派が「Jodo Shinshu」を公式名称とするのに対し、真宗大谷派や真宗佛光寺派では海外の仏教徒にも直感的に伝わりやすい「Shin Buddhism」という英訳を採用している点も、大谷派ならではの開かれた教団姿勢を象徴しています。
真宗大谷派の門徒にとって一年で最も大切な仏事が、宗祖・親鸞聖人の御祥月命日(ごしょうつきめいにち)を機縁として勤まる「報恩講(ほうおんこう)」です。東本願寺の公式発表資料によると、本山では毎年11月21日から28日までの8日間にわたって厳修され、全国の末寺や各門徒の家庭(お取り越し・お講)でも深い感謝とともに勤められています。さらに、生前に東本願寺の御影堂などで剃髪の儀式を受けて仏弟子となり、「釋〇〇」という法名(他宗派でいう戒名)を授かる「帰敬式(ききょうしき・おかみそり)」が現在も多くの門徒によって実践されているのも、大谷派の信仰が単なる葬式仏教にとどまらない生きた伝統であることの証左です。