中大兄皇子の恋愛面を語る上で欠かせないのが、絶世の才女・額田王、そして実弟・大海人皇子との関係です。額田王はもともと大海人皇子と結ばれ、十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけていましたが、後に中大兄皇子の寵愛を受けることになりました。
この劇的な関係性を象徴する最も有名な場面が、668年に近江の蒲生野(がもうの)で行われた薬狩りの宴です。ここで交わされた有名な和歌のやり取りは、万葉集屈指の名場面として知られています。
■ 額田王の歌(万葉集 巻1・20)
「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(紫草の生える御料地を行き来しながら、そんなに私に向かって袖を振って……野番の番人が見咎めるではありませんか)
■ 大海人皇子の返歌(万葉集 巻1・21)
「紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」
(紫草のように美しいあなたを憎いと思っているなら、他人の妻(兄の妻)だと知っていながら、これほど恋い焦がれたりするだろうか)
かつての妻へ大胆に愛を囁く弟と、それをたしなめつつも受け止める額田王。すぐそばには最高権力者である中大兄皇子がいる前でのやり取りです。
この問答歌について、かつては「命がけの不倫劇」「ドロドロの愛憎劇」と解釈されることが主流でした。しかし現在では、公式な酒宴の席を盛り上げるための「洗練された宮廷風流(みやび)のパフォーマンス」であったという説が有力です。公の場で機知に富んだ恋愛歌を詠み合うことで、兄弟間の成熟した関係性や近江宮の文化的高さを周囲の貴族たちに見せつける狙いがあったと分析されています。