なぜ大谷吉継は敗戦覚悟で三成に殉じたのか?病と義に生きた壮絶な最期の真相

なぜ大谷吉継は敗戦覚悟で三成に殉じたのか?病と義に生きた壮絶な最期の真相

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吉継を語るうえで欠かせないのが、彼の生涯を覆っていた深刻な病です。当時の記録では「癩病(らいびょう)」、現在の医学でいうハンセン病、あるいは重度の皮膚結核や梅毒などの感染症であったと推定されています。天正の後期頃から病状が悪化し、顔面の皮膚がただれ、眉毛や睫毛が抜け落ち、後年にはほぼ失明状態に陥っていたと伝わります。

吉継が常に顔を白い絹の布で覆っていた「白頭巾」姿は、病変によって崩れた自らの顔を周囲に見せないための配慮であり、同時に武士としての威厳を保つための誇りの装束でした。病気に対する差別や偏見が極めて根強かった中世社会において、吉継が家臣団や領民から絶大な敬愛を受け続けた背景には、彼の高潔な人柄を示す有名な逸話が存在します。

大坂城で催された豊臣秀吉の茶会での出来事です。ひとつの茶碗に点てられた濃茶を順に回し飲む場において、吉継が口をつけた茶碗には、顔から滴り落ちた膿(あるいは鼻水)が入ってしまいました。後席の諸大名が顔を引きつらせ、飲むふりをして茶碗をやり過ごすなか、ただ一人、石田三成はその茶碗を受け取るやいなや「その茶は格別美味い」と一気に飲み干したと伝えられています(『茗話記』など後世の軍記物に記載)。

この茶会の逸話は後世の創作物による潤色が指摘される一方、両者の間に利害を超越した相互理解と深い信頼が存在した事実を象徴的に物語っています。吉継自身も他者の侮りに対して卑屈になることなく、公正無私な政務と温厚な気配りによって、多くの武将たちから別格の敬意を集めていました。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。