元禄文化(17世紀末〜18世紀初頭)を理解するうえで外せない最大の謎が、「幕府が存在する江戸ではなく、なぜ上方(大坂・京都)が主舞台になったのか」という点です。その背景には、当時の「三都(江戸・大坂・京都)」における圧倒的な経済格差と社会の安定化がありました。
江戸幕府が開かれてから約1世紀が経過した元禄期、江戸は依然として武士が人口の約半分を占める巨大な「消費都市」にとどまっていました。これに対し、大坂は「天下の台所」として全国の米や特産物が集散する商業と金融の巨大拠点であり、京都は平安時代以来の伝統工芸や学問・出版の中心地として君臨していました。実質的な富と富裕な商人階層(町人)が集結していたのは、江戸ではなく圧倒的に上方だったのです。
さらに、社会構造の劇的な変化も見逃せません。4代将軍・徳川家綱から5代将軍・徳川綱吉の時代にかけて、幕府は武力で抑え込む「武断政治」を完全に脱し、儒教(朱子学)に基づく道徳や礼節を重んじる「文治政治」へと大きく舵を切りました。戦乱の気風が完全に消え去り、長期的な平和(パクス・トクガワーナ)が訪れたことで、武士も町人も血生臭い闘争から解放され、芸術や娯楽、自己表現へとエネルギーを注げる環境が整ったのです。
加えて、勘定吟味役の荻原重秀主導で行われた「元禄小判の改鋳」が市中の通貨流通量を急増させ、インフレ傾向を伴う好況をもたらしました。経済力をつけた豪商たちが惜しみなく遊興や芸術パトロン活動に資金を投じたことこそ、元禄文化が上方で爛熟した決定的な要因といえます。