ここからは言語の話を離れ、もう少し社会的な文脈で「新鮮」という言葉の価値を考えたい。2026年の日本社会は、情報・モノ・体験のいずれもが過剰に供給される「飽和状態」にある。総務省の2026年度情報通信メディア調査によると、1人が1日に触れる情報量は2006年比で約6.8倍に増加している。私たちは常に何かに触れているのに、逆説的だが「新しい」と実感できる瞬間は減り続けている。
この状況下で「新鮮さ」「新鮮味」「鮮度」という言葉が頻繁に使われるのは、失われた知覚の回復を求める無意識の表れという見方もできる。京都在住の食ジャーナリスト・小松由紀氏はこう話す。「生産者と話すと、『新鮮な野菜』の基準が消費者と明確に違います。私たちは『収穫から24時間以内の野菜は、包丁を入れたときの水分の弾け方がまったく違う』と言うんです。ですが、スーパーで買う消費者は、その違いを体感したことがないまま『新鮮=良い』とラベルを消費している。言葉は使われているのに、言葉が指す感覚の実体が失われている。これは食に限らず、情報や体験全般に言えることかもしれません」。
小松氏の指摘は核心を突いている。私たちは「新鮮な情報」「新鮮な体験」「新鮮な驚き」を求める一方で、それを感覚として受け取る余裕を失いつつある。言葉だけが先走り、実体が追いついていない。それでもなおこの言葉を手放せないのは、「新鮮」が本来示す「身体が反応する瞬間」への渇望が、社会の深い部分に残っているからだろう。